昨日の日記で伊勢神宮と宇佐八幡宮があんな辺鄙な場所にある理由は都から見て太陽が昇る東の方向の果てにあるからである!これは皇太子が住む場所を東宮御所と呼ぶように農耕神の世界では東は未来形のおめでたい方向なのだ!という自説を書いたが、実はこの説には欠点があるのだ。

 そんなら日が沈む方向の西の果てには「お前なんか死んじまえ!」「バケて出てくんなよ!」って人物を祀った神社があるはずだ!という逆説である。それで飛鳥京なり大宰府から真っすぐに西に線を引いていくと近畿地方だと大阪府岸和田市に突き当たって、そこには国津神の祖スサノオを祀る神社なんかが出てくるのだが・・これスケールが小さいのね。

 今なら伊勢神宮はトランプ神社で岸和田はオバマ神社なはずだけど、そこにあるのはどこかの民主党選出の市長レベルなのだ。それに厄介なのはオバマよりも遥かに格上なケネディ神社オオクニヌシの出雲大社は日が沈む西岸にはあるけど、飛鳥京や平城京から見て西北西の方向、つまり真西では無いのである。

 古代史好きならご理解いただけるだろうが、出雲大社がなぜ島根県にあるのか?という理由は不明な点が多いのだ。いちおう大量の鉄剣が発掘されたことから山陰地方に強力な豪族があったかのように歴史学者は言うけれど、古代の海面は今より10メートル前後上方にあって、ここら一帯は平野部が無いノルウェーのフィヨルド地帯みたいな地形だった事を彼らが考慮しているのか甚だ疑問である。

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 製鉄を生業とする民が住み着いていて多くの鉄剣を作っていたかもしれないけれど、人口の2%が最大兵力動員数というような軍事学の常識、つまり大和朝廷に対抗するだけの兵力とベースとなる人口を維持する農業生産力=平野部が出雲の地には無いのである。だからここにオオクニヌシという大豪族が根を張っていて、だからここにオオクニヌシの神社があるんですよ!という方程式には無理があるのだ。

 筆者は異端の学者たちが言うようにオオクニヌシは出雲大神宮)京都・亀岡)がある丹波地方の支配者であり、大和朝廷との戦争でこの地まで追い詰められた後に処刑されたのだ!出雲大社は処刑地に建っているのだ!という説を指示してきたのだが、しかし・・・これ書くと長くなるから割愛するけど実はオオクニヌシの処刑候補地って他にもいろいろあるのよね・・。

 だから島根県のこんな辺鄙な場所になぜオオクニヌシの怨霊封じ込めシステム(=出雲大社)があるのかさっぱり分からないでいたのだけれど、先日方位学についてちょっと調べ物をしていたら「あれっ?」というブレークスルーにぶち当たったのだ。古代中国の方位学で見た西北西には隠し意味があった・・という記述である。

 子丑寅卯辰巳・・と言うように方位の360度に干支を配置するのが古代中国の方位学で、西北西の方向にはイヌを表す「戌」が当てられているけれど、実はこの「戌」には滅びるの「滅」の隠し意味、つまり草木が枯れ果て樹木が朽ち果てた滅びの地という意味が込められている‥と書いてあったのだ。

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 たしかに長安や洛陽からみて西北西方向はタクラマカン砂漠などの不毛の地だからこういう割り当てになったのだろうが、北東の「丑寅」が油断ならない侵略民族を表す鬼門であるように、西北西は滅びの地、あるいは「ここで朽ち果てて永久にこの地に封じ込められる」という青木ヶ原の樹海的な意味がある‥と知ってハタと膝を叩いたのだ。

 出雲大社は奈良から見て西北西、つまり「朽ち果てて死ぬ」方向である・・。それを知った時に筆者の脳裏に古代に起こったある種のドタバタ劇が浮かんだのだ。ちなみに筆者はい知識しかないけど、おそらく最初はオオクニヌシの神社は処刑された土地とか太陽の沈む土地にあったのではないか・・と思っている。

 ところが天変地異とか疫病が相次いでしまい、これはオオクニヌシの祟りだ!と人々は恐れおののいてしまったが、しかし当時の神道の持っている術ではそれを治めることが出来ない。それで聖武天皇が当時最先端の技術と考えられていた仏教に従って奈良の大仏を作ったように、オオクニヌシの怨霊封じ込め場所も中国の方位学に倣ったのではないか・・というのが筆者の考察である。

 西北西の地の果てにオオクニヌシの怨霊を封じ込めて朽ち果てさせる・・。そんなのお前の思い込みだ!と言う反論があるだろうけど、だったら仮にオオクニヌシの処刑場所は別にあったと仮定した場合、なぜ島根県のこんな辺鄙な場所に出雲大社が建立されたのか?についてご意見投稿いただければ幸いである。

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