亜州南溟日記

以前FC2でアジア南溟通信というブログを書いておりましたがコチラへ引越ししました。アジアで沈殿してる中年オヤジです。

カテゴリ: 歴史古代史

昭和から平成へと元号が改まる時、筆者は大学4年生で学生時代最後の旅の準備に忙しく、世間では「時代が変わった」と大騒ぎしていても正直「へえ、そうなの・・」くらいにしか思わなかったけど、それから30年たった昨日、令和の時代に入る瞬間に何か一つの区切りが来たような気分になってしまった。

 ちなみに筆者は子どもの頃から頭の中身は西暦派であり、平成○○年とか言われてもそれが西暦何年なのか?をひねり出すのに一苦労するし、つい10年くらいまで計算間違いを起こしやすい元号なんて無くせばいいじゃねえか!と本気で思っていたのだ。

 ところがある推理小説を読んでいたら「歴代天皇総覧」なる本が登場し、これは初代神武天皇から綏靖、安寧と歴代の天皇はどういう人で、その人の治世はどういう状態だったのか?が書いてあり、日本史を一つの流れとしてみるには最適の書である!と書いてあったのだ。

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 で、それから数年たったある時、赴任していた香港から日本に帰国した折に東京の実家に身を寄せたら、なんと亡父の書斎にこの歴代天皇総覧が置いてあるのを見て驚いたのだ。だって亡父はかなり左の方の思想の持ち主で、信長や四十七士の時代小説は山ほどあれど天皇絡みの本はただの一冊も見かけたことがなかったからだ。

 あの時どういう心境でこの本を買ったのか?と亡父に聞いておけば良かったのだが、しかしその時の筆者は前述の推理小説の記憶があったのでその本を失敬し、それで香港に持ち帰った後ヒマに任せて読んだのだが、正直なんの発見も感動もなかったらしく、それでこの出来事自体すっかり忘れていたのだ。

 ところがそれから数年たった昨日、元号が平成から令和へと改まった日にふと頭に浮かんだのは「歴代天皇総覧」に平成天皇という記述が書き込まれるシーンで、その時に何と言うんだろう・・、筆者の稚拙な文章力では巧く表現できないが、なんか歴史の流れと自分がシンクロしたような気分になったのね。

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別に熱心な天皇制支持者ではないし、昭和○○年とか平成○○年なんて不便な年号はさっさと廃止してすべて西暦に改めたらどう・・という考えは今でも変わらないけど、しかし若いころ天皇制打倒と革命を信じた亡父が年老いてから「歴代天皇総覧」を手にした気持ちがなんとなく判った気分になったのだ。

 共産主義者であれキリスト教徒であれ一定の年齢に差し掛かれば自分のオリジナリティを模索するものであり、最初はサムライや禅宗あたりに留まって満足していられるが、さらに源流を探っていけば日本史の中で一貫した存在である天皇にたどり着く。亡父はこの系譜を辿ったのに違いない。

 で、ここから先は天皇に関して気の利いたことを書いて締めくくりたいのだが、残念だけど筆者はまだそこまで到達してないのね。だから誰もが辿るオリジナリティ模索を続けながら、日本史と自分自身との紐の結び目を一つ一つ見極めながら噛み砕いて咀嚼して自分の血と肉としていきます。
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先日の日記で新紙幣の肖像画が何が良いか?と書いたところ、これを読んでいただいた方から「やっぱり天皇でしょう」というコメントをもらったのだが、それを読んで「なるほど、そりゃそうだ」と納得してしまった。政治家や財界人に文化人はどの国だっているわけで、日本がオリジナリティに拘るなら確かに天皇である。

 で、1万円札は明治天皇でほぼ確定としても、5千円札は昭和天皇で千円札は大正天皇かな、だけど大正天皇は病弱なイメージがあるしなぁ・・などと考えていたのだが、だったら戦前の日本ではどの天皇が紙幣の顔になっていたのだろう?と思って調べらたところ・・なんと居ないじゃないの。

 神功皇后と菅原道真に武内宿禰、藤原鎌足、和気清麻呂、聖徳太子、楠木正成、ヤマトタケルの8人、それと人物像ではないけど大黒様像、これが肖像画になった面々で、これ見ていただけば明らかなとおり皇位についた人はゼロである。それでネットであれこれ検索したところ、紙幣に関する皇室のスタンスが見えてきたのである。

 なんと明治維新政府は最初の紙幣には明治天皇を描くはずだったのだが、お伺いを立てたところ「自分ではなく神功皇后にしてくれ」という返事だったそうなのである。ちなみに神功皇后とは崇神天皇血統の仲哀天皇(第14代)の妻で、応神天皇(第15代)の母親となっているが、これ歴史好きならご存じのおとり実際は架空の人物である。

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 その神功皇后の宰相だったのが武内宿禰で、この方は記録上は二百数十歳まで長生きした超人なのだけど。勿論そんな事有るはずもなく神功皇后同様にこの宰相も架空の人物なのだが、ちょっと話がずれるけど何故この2名を捏造したのか?というと、それは万世一系という伝説を作るためなのだ。

 神武天皇建国以降の日本の統治者は崇神(10代)、応神(15代)、継体(26代)、天武(40代)、桓武天皇(50代)のときに血統が入れ替わっているのだが、神功皇后と武内宿禰はこの崇神→応神の王朝交代期を隠し、実は連続した王権なんですよ!と誤魔化すためにねつ造されたのだが、これこの人だけでなく天皇家周辺には捏造キャラが結構いるのだ。

 その代表例が聖徳太子で、これは有名な話だからいちいち説明する必要は無いだろうけど、これは当時大和盆地の支配者で実質的に日本の最高権力者だった蘇我氏三代(馬子、蝦夷、入鹿)の業績をすべてここに移し、蘇我氏はとんでもない連中だった!蘇我氏は王権なんて握ってなかった!と歴史修正するために作り出されたのだ。

 それと聖徳太子同様に紙幣に描かれたヤマトタケルもそうで、熊襲や出雲、東日本を軍事制圧した日本版アレクサンダー大王みたいに祭り上げられているけど、実はこれ天皇家とは全然関係ない別の大豪族の業績を移し替えとか、実際は九州出身の天皇家を大和盆地代々の統治者に見せかけるためだったという説が濃厚なのだ。

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 で、筆者は文章が下手なので一旦ここでまとめるが、戦前の紙幣では8人の人物が紙幣の肖像になったけれど、そのうち3人は皇族血統ではあるものの皇位にはついておらず、また実在性が非常に怪しい人物であり、そして残りは天皇への忠実な下僕と評価される人物で、武内宿禰以外は実在が確認されている人物である・・という何ともアンバランスな感じなのね。

 ここから先は筆者の想像だが、おそらく天皇家は紙幣や通貨に自分たち本人および祖先が描かれるのが嫌だったのではないだろうか。それはおそらく筆者の祖父母の世代まで日本に根強く残っていた「お金は穢れている」、色んな人間の手を通じて情念や欲が紙幣へと移り、それが肖像画に描かれた天皇を穢す・・という神道的な考えに基づいていたに違いない。

 戦前の日本って皇紀2600年なんて祝っていたんだから普通に考えれば神武天皇が紙幣に描かれそうなものだし、他にも天智や桓武、後醍醐天皇なんてのも候補に挙がりそうだけど、前述のとおり穢れへの恐れから実際には存在しない神功皇后と聖徳太子、ヤマトタケルを選んだのではないか・・というのが筆者の結論なのだが・・もう一つ疑問があるのね。

 菅原道真と和気清麻呂の両者が肖像画入りしてることだ。これ古代史に詳しい方ならよくご存じのとおり和気清麻呂は天武から天智・藤原血統へと政権を戻した最大功労者、一方菅原道真はその天智・藤原により権力失墜させられ怨霊神(天神)となった人物なのだが、これ不明な点がいくつもあるので、もうちょっと調べて整理がついたら日記にしますね。

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天皇皇后陛下が剣と玉を持って伊勢神宮に参内するというニュースを聞いてハタ!と膝を叩いてしまった。なおこれは筆者が熱烈な天皇信者でも伊勢神宮を守ろう会の会員なわけでもなく、この剣璽動座なる皇室行事は筆者の頭になかにある仮説にピッタリ合うからだ。

 仮説とは古代の日本は3つの国に分かれていて、三種の神器はそれぞれの国の王の象徴である!というものである。これイギリスを想像していただきたいが、エリザベス女王がユナイテッド・キングダム(UK)の統治者である証はイングランドとスコットランド国王の王冠を、あと息子チャールズがウェールズ大公としての王冠をかぶっているからだ。

 日本の場合だと三種の神器のうち「鏡」は卑弥呼ら太陽信仰の「倭国」の王、「剣」はスサノオ源流の近畿中部地方の製鉄民と鉱山豪族、そして「玉」は後からくわえられたタイミングを考えるとズバリ蘇我氏で、これは蝦夷とか毛人と呼ばれた東国「日本」の豪族連合の長である!というのが筆者の考えなのだ。

 で、倭と日本が出てきて混同するかもしれないので地理的な補足をしたいのだが、中国の歴史書(旧唐書)に「倭国と日本は別種なり」とある通り2つは全く別々の国であり、倭とは北九州と南朝鮮を網羅する海洋国家で、日本は「日のもと」の名の通り太陽が昇る方向の東の果て、現在だと東海地方より東側の縄文系国家のことである。

 九州の「倭」が東に侵攻してスサノオの末裔オオクニヌシを倒し、そこに「大きな倭」を意味する「大和」を建国し、そして次に東国「日本」が征服された!というのが正史で、ただ筆者はこれは虚構で実際は別のシナリオである!と思っているが、これ書くと長くなるし本題からずれるので今日の日記では一旦はしょる事にする。

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それで筆者の「三種の神器=古代三か国の王権の証」説と天皇皇后両陛下の伊勢詣では何が関係あるのか?と思う方はご苦労だけどこの日記の一番最初の部分を見てほしい。さっきから三種の神器の事を書いてるけど・・両陛下が伊勢神宮に持っていくのは剣と玉の2つだけ・・。これってなんか変ですよね。

 なんでも昭和天皇は皇居から表に出る際は必ず剣と玉を携行していたらしく、それはこのお方が「どこにいようが自分は天皇であるぞよ!」という強烈な自負があったからだ。でもだったらなんで鏡を持っていかないのか?という疑問が残るけど、これ血統というキーワードを当てはめれば分かりますよね。そう、現天皇家は「鏡」の子孫なのだ。

 オレが鏡そのものなんだから持ってく必要は無い!そういう事なのだ。そしてその「鏡」の子孫である天皇皇后両陛下が伊勢神宮に「剣」と「玉」だけを持っていくが、この神社は大和王権から見て太陽が昇る真東の方向の果てに建てられているという事は、伊勢神宮も「鏡」血統の聖地ということである。

 この行事って要するに墓参りである。伊勢神宮はお墓であり、その子孫である現天皇が「今でもあなた達が征服した近畿と東日本はわが手にありますよ、その証拠がこれですよ!」と「剣」と「玉」を見せるのが目的なのだ。そして皇居にある「鏡」は普段拝んでいる位牌みたいなものだから、墓参りにわざわざ持っていく必要は無いのだろう。

 以上が筆者の仮説である。で、まあこういう事書くと「お前は反日分子だ!」とコメント書いてくる人がいるが、当たり前だからどの国だって武力によって国家統一してきたのであり、日本の場合も例外ではないですよ・・と筆者は言ってるのであって、天皇家がどうのこうの!と因縁をつけてるわけではないので勘違いをしないように。
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(前日からの続き)祭りとは本来「年に一度部長の顔にビールぶっかけて良い!」の無礼講と同じく一般庶民のガス抜きが目的であり、だからこの木を切り出して地面に引きずる、乗っかって丘から突き落とす、神社に柱として立てかける、という一連の儀式はここら一帯の住民が「木」に対して深い恨みを抱いていたと考えた方が自然である。

 さらにはこれ非常に重要な事だが、この神社には毎年4月15日(以前は旧暦弥生月の酉の日)に「生きた鹿を75頭殺して首を切り落とし、生首を飾る」と言う別のビッグイベントが明治時代まであったのだが、この血生臭い儀式がこの地の歴史を語る重要なキーワードになっているのだ。

 古代史ファンならご存じのとおり鹿と言ったら藤原氏である。これ説明すると長くなるからご自分で調べていただきたいが、藤原氏の氏神と言えば茨城県の「鹿」島神宮であり、その分社である奈良の春日神社あたりで放し飼いされているのは「鹿」、記紀にある白鹿に乗って来たタケミカヅチは藤原氏を寓話化したものである。(物部氏の場合は酉で、氏神の石上神宮には鶏が放たれている)

 年に一度この日だけは鹿を殺してもよろしい!鹿のクビが並んだ前で酒を呑み踊り狂ってもよろしい!と言う事は、祭りを楽しむ地元民たちは藤原氏に対して激しい恨みを持っているという意味であり、このお達しを出した大和朝廷は藤原氏そのものだから、昨日日記に書いたの「土着民⇒出雲系大豪族⇒大和朝廷」という構図で見ると、この祭りを楽しんでいるのは出雲系住民であろう。

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 確かに記紀では「この地から出ません」と言う条件で降伏したと書いてるのだから、そこに住んでいた住民は大多数が出雲系のはずである。で・・その出雲系住民がもう一つ別の祭りで山から切り出した「木」に怒りをぶつけている!でもその出雲系はこの地に逃げて来た際に土着民を征服していた!と考えると・・何となく見えてきません?。

 これはあくまで筆者の推測だけれど、古来よりこの地には土着民が住んで普通に暮らしていたが、そこに出雲系大豪族が攻てられて隷属化されてし、会い、一部の土着民は山へと追いやられて、そこで森林伐採とか砂鉄取りに鉱山掘りなどの過酷な奴隷労働に従事させられたと思うのだ。(守屋神社という物部氏を彷彿させる神社があり、そこが鉱物採取の拠点だったらしい)。

 ところがそれから数十年だか数百年たってから今度はこの地に大和朝廷(藤原氏)が攻めてきて、出雲系豪族は善戦したものの結局降伏してしまうのだけれども、この豪族は敗北の将なのに今でも軍神と称えられているのは、当時の価値観では負けとは解釈できない形で戦争終結となったのではないだろうか?

 もちろんそんなの記録にはないから断定はできないし、それに筆者は軍事学のプロではないから「負けではない負け」にどんなバリエーションがあるのか知らないのだけれど、しかしベトナム戦争のようにアメリカは軍事的には圧倒していたのに政治的に負けた・・というような奇妙な帰結だったように思えるのだ。

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 そしてこれは自信を持って言えるけど、そこでは山に逃げ込んだ縄文系土着民が大きな役割を生やしたと思うのだ。それは鉱山労働のストライキを起こしとか、あるいはトロイの木馬よろしく出雲系の司令部に潜り込んで総大将の首をかき切った等々色んな想像は出来るけれど、とにかく縄文系土着民のせいで戦争継続不能の状態に陥ったはずである。

 出雲系の民たちに「お前らのせいで負けたのだ!」という深い恨みが残ってしまい、だから数年に一度の祭りの際には山に分け入って原住民を捕まえて殺しても良いよ、丘から突き落として殺しても良いと、神社に死体を立てかけて皆で酒を呑んで嘲笑っても踊り狂ってもガス抜きしろ・・となったと思うのだ。

 現在は山から切り出した木を突き落としているが、古来は原住民だった・・それが筆者の考察である。で、そう書くと神聖なる神社に死体を立てかけるなんて有り得ない!と思うかもしれないが、それは近世以降の感覚であり、恨みを持って死んだ人間の念を逆さに利用することでプラスに転化する古神道の概念で考えればこれが正解なのだ。

 異常長々と書いてきたが、これが日本三大奇祭の一つに対する筆者の考察である。なおこの話をこの地元の方に話しても反発をするだけだろうが、藤原氏に都合の良いように替えられた伝承に惑わされず合理的な考えが出来る人なら、歴史の陰に消えてしまった縄文系原住民の存在にたどり着くことが出来ると思います。

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筆者は三十代の半ばに島流しされていた事があって、この島流し先がある県には数年に一度行われる奇妙な祭りがあった。それは山から切り出した大木を大きな神社に突き立てる一連の儀式で。地元の人たちはこの祭りを大変誇りにしていたのだけれど、話を聞けば聞くほど筆者の中で違和感が高まっていったのだ。

 その神社で祀られているのは出雲系の大豪族で、大和朝廷軍とさんざん戦ったものの「以降この地を出ません!」との条件付きで降伏してしまうのだけれども、なぜだかその豪族は敗北の将にもかかわらず後年ずっと軍神として祀られていて、後に東北の蝦夷征伐に向かう大和朝廷の軍がこの神社を訪れて戦勝祈願しているのだ。

 軍人のみならずスポーツ選手や商店街の店主もそうだけど競争をする人間はゲンを担ぐのが普通であり、これから戦地に向かう軍人が石田三成や明智光秀ら負け犬の墓に戦勝祈願に行くとは思えない。しかも自分たち大和朝廷に敗北した大豪族なら尚更の事だから、なんか表書きの歴史と実際の配線プロセスは違うのではないか?と直感したのだ。

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それから木を伐りだして神社に建てるまでのビデオには木を地面に引きずって運んでいるシーンが映っていたのだ。当たり前だがご神木は神聖なモノであり、20年に一度建て替える伊勢神宮の場合はちゃんと台車に乗せて運んでいるのに・・である(写真下)。しかも祭りのクライマックスはこの木を丘の上から突き落とすのだが、その上に人が乗っかるのである。

 いくら奇祭とはいえこれらの事象は普遍的信仰心からは大きく逸脱している。だからこの祭りの言い伝えは事実と違うのではないか?とそのとき異論を唱えたのだけれど、そしたらまあ地元の連中は「この東京モンがナニを言うか!」と感情的に反発するだけで、結局そこから先へは話が進まなくなってしまうのが常だったのだ。

 で、3年いた後にその会社からは実に不快な思いで離れたから筆者の中ではこの神社のみならず県に関わる事は一切合切どうでも良いのだけど、しかし後年古代史に興味を持つようになって色々調べていくうちに、この祭りを始め地元民が信じていた郷土史に間違いがある事が朧気ながら見えてきたのである。

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まず地元の方たちの認識から抜けてのは、この地域の歴史を出雲系豪族vs大和朝廷の二者対立構図で捉えるのは間違いで、実際はそれ以前に住んでいた原住民、それはミシャグシとか石神、アラハバキなどを信仰していた土着民がいるわけで、現実の構図は第一次住民(土着民)vs第二次住民(出雲系の大豪族)vs第三次住民(大和朝廷軍)の三者対立なのである。

 これ日本以外だと南アフリカ、ブッシュマンや黒人が住んでいた土地へオランダ系のボーア人が攻め込んで植民地化し、次にイギリス人がやってきてボーア人を遥か遠方へと駆逐しケープ植民地を作ったボーア戦争に至るまでの250年史に例えるのが一番近いだろう。侵略目的が天然資源であるなどこの神社地帯の歴史と共通点が多いのだ。

 あと神社がなぜか4つに分かれていて、それは2系統なんだけれど・・とややこしいのは、要するに土着民、出雲系侵略者、大和朝廷の三者それぞれが自分の神社を建てたり古い神社を上書きしたりしたからで、伊勢神宮が2つあるように1つの社名で神社が幾つもある場合は「その土地はエルサレムみたいに歴史的に何度も支配者が入れ替わった複雑な土地でっせ」と考えるべきらしい。

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さて、これ以上くどくど書いても退屈だろうから結論に向かうけど、古来より「祭りは民衆のガス抜き」という本質、つまり年に一度の忘年会で部下は部長の顔にビールぶっかけても良い無礼講の原点という視点で見ると、この奇祭の本当の意味、そしてこの地の歴史はどういうものだったのか?が見えてくるのだ。

 山から切り出した「木」を粗末に扱っている以上、この地の民衆は「山」あるいは「木」に対してよからぬ感情を抱いているはずだし、それともう一つこの奇祭には生きた鹿を百頭殺して生首を晒す・・という血なまぐさい儀式がかつてあったのだが、古代史ファンならもうご存知の通り「鹿」とは「鹿」島神宮を氏神と称える藤原氏、大和朝廷の影の支配者の事である。

 前述のとおりこの地の歴史は「原住民vs出雲系大豪族vs大和朝廷」の構図で、「出雲系はこの地に封じ込められた」のだから、祭りを楽しむ民衆は出雲系の末裔と考えるべきであり、そして鹿(藤原氏)の生首を晒すことでご主人様たる大和朝廷へのガス抜きをしている・・。となるともう一方の「木」や「山」は三者構図の左側なんじゃないの‥と思ったのだ。(続く)

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